福島県いわき市で、卒業式前の給食として提供予定だった赤飯約2100食分が、東日本大震災が発生した3月11日という日に重なったため、急遽廃棄され、防災備蓄用のパンに変更された。
市の教育長は、震災の日に祝い事の象徴である赤飯はふさわしくないと判断したと説明。しかし、多くの食糧廃棄に「もったいない」との声や、卒業を祝う赤飯提供を支持する声もSNSで上がっている。
いわき市長は、廃棄はもったいないと感じており、今後、教育委員会に市長部局へも相談するよう指示した。食糧廃棄への指摘など、多くの意見が寄せられている。
引用元: https://news.yahoo.co.jp/articles/ad775100a6e20bcfc97474482121405128ea9e40
みんなの意見
情報によると「たった一件のクレーム」と言われている
また、この年卒業する中学生は2011年3月の震災後に生まれた子達で、「むしろ赤飯でお祝いするべきだろ!」という意見にも納得できる
現場の、過剰な事なかれ主義と短絡的判断で起きてしまった事態、だと思う
「赤飯はふさわしくないのでは?」←今回の一人の意見が悪質クレーマーとは思わないが(そう考える人も中には居るだろう)、
クレーマーに簡単に屈するような社会風潮は改めて行くべき
今回の判断は誤っていて赤飯2100食が廃棄されたことは遺憾ではあるが、日頃の学校給食に於ける食品ロスの実態は、明るみになれば驚愕する状況であると思います。
食べ残しは勿論、調理残も多く、教育機関であるにも関わらず、食品を粗末にしている実態はもっと掘り下げて改善していくべきです。
最低限、完食出来るだけの給食時間を確保することが大前提となります。
1番問題なのは、最初に学校に問い合わせたやつやろ。これがなかったら何も無く赤飯が出されていた。
遺族にとっては悼む日かもしれんけど、この中学生達にとっては新たな門出になる大事な日。
今後何十年とこの日に祝い事はしてはならないのか?この日に生まれた人は誕生日も祝えなくなる。
今のコンプライアンスを意識するがあまり、過剰反応に過敏になりすぎになってはいませんか。
本来は法令順守です。倫理的な部分も含めてコンプライアンスという言葉になっていますが、倫理観というのは、幅があるもの。
毅然とした対応をしたほうがむしろ好感が持てるという時代に変化していってもいいと思う。
昨日ラジオでこの話を聴きました。
確かに大勢が亡くなった震災の日であり赤飯を~~という思いも判らないわけではないですが。
当時この2100食があったら、食べるものも限られた避難所で喜んで食べたのでは?
いつだったか(東日本の震災の時だったでしょうか?)自衛隊の方々が「栄養もある」という赤飯を食べていたところ「災害がめでたいのか!?」とクレームが入ったという話も聞いたことがありますが、非常時に食べられるものがあったら食べることが大事だと思います。
つくづく、廃棄することはなかったと思います。
311だからこそ、食べ物を粗末にするなんて信じられない。少なくとも2週間は食べ物の確保に苦労した。3人分のインスタント味噌汁を5人分にして、いつもなら捨てていた大根の葉を刻んでいれたりして、いつまで続くかわからない状況の中、工夫して生活していた。キャベツは1個700円だった。仙台の比較的街に近い地域だから、2週間程度で済んだけれど、いわき市は放射能汚染の心配もあって、搬入も少なくてもっと大変だったはずなのに、なぜ…震災時に地元にいなかった方なんでしょうか…米1粒にも神様が宿ると言われている国で、信じられない。
震災の年に産まれ、この度無事に中学校の卒業を迎えられることは、盛大なお祝い事だと思う。
卒業生皆さん、ご卒業おめでとうございます。
今回の大げさな報道で少しイヤな気持ちになっちゃった生徒さんもいるかもしれませんが、一切気にする必要はないと思います。
ですが、赤飯ひとつでこれだけの騒ぎになるくらい、あの震災は本当に特撮映画かと思えるくらい衝撃的なものでした。皆さんの授かった命を大切に、親や地域の方々へ感謝の気持ちを忘れないでこれからも成長していただきたいと思います。
一人の保護者からのクレーム電話で決まったと、他の記事で見ました。それだけで廃棄が確定するということは、その保護者は権力者か何かなのか?と邪推してしまいます。
一般保護者がそんなクレーム電話をしても、用意した慣例の物を即対応するとは思えないし、そんなことを毎回やっていたら学校は機能しなくなる。
私の出身は西側ですが、両親が定期的に檀家となっている浄土真宗のお寺にお経をあげにいく習慣のある家でした。そのお寺では、来た人に必ずお赤飯を配ります。別におめでたい日とかは関係ありません。
毎日お寺の方が炊いていて、来た人には必ず配る。めでたい時は紅白餅が別途あります。それらをよく食べていたのでお赤飯は好きですし、身近過ぎて、めでたい日の物という認識もあまりない。
実は今、餅米は品薄です。昨今の米高騰で生産の優先度が落ちたのかもしれません。そんな中で用意したお赤飯と思うと余計に有り得ない。
給食のメニューを決めたのは一か月前。
その時に誰からも異論が出なかったのに、当日の朝来た1本の電話であっさりメニュー変更して廃棄。
電話が誰からだったのか、ではなく、廃棄を決めて号令をかけたのは誰か明らかにする必要があるね。
クレーム対応って難しい部分はあるけど、何でも言いなりになってしまうとクレーマーを増長させてしまうことになりかねない。
理由があってこうしています、と毅然と対応することが大切なんだと学ばされます。
卒業祝いは別に 何の問題もないですし 今回の件は市教育委員会がやりすぎたなと見ます。
ただ 日本はもともと悲惨な記憶や学びを お祭りなどの形の形で後世に残すのが 習わしの国。
花火大会なども元々は 東京大空襲 やお盆の亡くなられた方の御霊を送るために始まったことです。
そういったことでお祭りを楽しむのも不謹慎となるのでしょうか?
鎮魂と祝いは 共存できます。
伝統的な日本の御霊の 弔い方を見直してはどうか。
受け取る側より、クレームをする側は、こういう過剰反応をする可能性があることを意識すべきでしょう。
大げさにしたくなければ、皆が赤飯を食べた後にクレームをしても良かった筈です。
今の日本はクレームを恐れて、新たな産業が起こりづらい雰囲気を作っているように感じますので、今回の反応もさもありなんと思ってしまいます。
私が小学生の頃、先生に相手がどう反応するかを考えて発言することと注意された事があります。少数意見を尊重することも必要ですが、周りがどう思うか考えて発言することも必要だと思いますけどね。
震災をどうでもいいとは思わないけど、じゃあ東日本大震災以外の大きな震災の日に対しても、今回電話かけた人や委員会は同じ事をするって事ですかね?
電話かけた人は辛さが消えないのかもしれないけど、正直そう言ったお問い合わせはするべきじゃなかった。赤飯をやめろとは言っていないのだろうけど、不謹慎では?そんな電話を受けたらその場で丁寧に判断して電話対応出来なかったなら、止める、と言う選択肢が出てもおかしくないと思う。せめてうちの子には食べさせないでくださいまでだったと思う。
電話かけた方は自身の電話で提供がなくなるかもしれないを考えられなかったのかな?と考えさせられます。
クレームを入れる人は匿名で入れられる人は明確という、立場の著しい不均衡が問題の根底にある。クレームを入れる人も匿名でないならもう少し世間の反応を考えてものを言うようになるんじゃないかな。匿名だとよく考えずに一時の感情で思い立ったことを口に出しやすいしね。自分の意見を表明する時にも推敲は必要でしょう。匿名の意見では物事を動かさないという判断も必要。
調理された方の心も廃棄されています。小豆を浸したり、おそらくつけていた水ではなく食紅を経験を活かした微調整して添加し、柔くなりすぎないように蒸し、固くならないように冷まし、ごま塩や紅生姜も用意して、卒業で祝いの品だと盛り付け、梱包、配送先の確認など全てに気を使っていたハズなのに。別に赤飯じゃなくてもいいです。食品だと無駄にしたら同じことなので砂とか土とかでもいいので同じ量を2200個分測ってみてください。
測ってるだけでも心折れるのに無駄だったとなると泣きたくなりますよ。
この件で市に意見が寄せられたことに、少し複雑な気持ちになりました。
3月11日の出来事は大切に伝え続けることが必要だと思いますが、その中でも子どもたちの門出を温かくお祝いし、未来へ送り出してあげることも大切だったのではないでしょうか。
また、赤飯が廃棄されてしまったことについても、震災当時に食料に苦労された方々や生産に関わる方々のことを思うと、やはり心が痛みます。
震災は忘れてはいけないし、哀悼の意を表すべき日だとは思いますが、まだ生まれたての時に震災にあった子達の成長を祝う15歳の子達の卒業祝いとは別だと思います。
私は代々東京出身東京生まれ、夫は京都生まれで京都育ち、しかし夫の両親は四国出身です。顔すら存じ上げない方の33回忌とかまで完璧な喪服で行き法事のたびにお赤飯を持たされて帰ってきます。
最初は驚いたけど、結婚して24年もはや普通のことと思えるようになりました。
1人のクレームというか気持ちの問題で、お子さんたちのお祝いが避難食のパンとかって可哀想過ぎる!3/11が誕生日の子とか一生お祝いしちゃダメなんですかね?もう意味わからないレベルです。能登半島地震は元日でしたが、一生新年はお祝いできないんですかね?
今回の件、電話をかけた方よりもお赤飯を廃棄しようと言い出した人間に問題があるように思えてきた。どの段階でどの部署のどの役職の人間が廃棄を提案したんだろう。その辺の情報は公開されるのかな。
この提案がどうして採用されたのか、そこを見直していくのが必要なんじゃないかと思った。
クレームを入れた保護者が所謂「厄介な保護者」だった可能性もある。
実際、地方の場合、やたらと声が大きい地元の有力者や関わると面倒なクレーマーが少なくない。
東日本大震災の際にもやれ「不謹慎だ!!」、「自粛しろ!!」と叫ぶ声があった様に、事ある度にクレームを入れる輩も現実にいる。
勿論、被災者の心情を考慮することや支援も重要だが、違うやり方もあるし、普通の日常生活を自粛したり祝いの場を無くす必要はないのでは。
少なくとも、一人のモンスターのせいで、在校生、教員や関係者が迷惑を被るのはおかしいと思う。
廃棄されたお赤飯、2100食…。それだけあれば色々な被災地にどれだけ貢献できたでしょうか。クレームを入れた側も、受けた側もその先の想像力が足りなさ過ぎでしたね。あれだけの災害を目の当たりにした人たちがそれをやってしまっては、この騒ぎは当然なのでは。「そんなつもりではなかった」のでしょうけど、クレームを入れた側も流石に震災をお祝いする意味でない事くらいは分かっていたはずだし、卒業の節目を迎える生徒さんたちのことを考えれば、理解してもらうことはできたように思う。余りにも判断が安直過ぎたと思う。
何を目的に計画されていたのかが大事。確かに震災関係の行事なら不謹慎となるが子供達の門出を祝う理由ならば全く問題にならない。担当した役所も目的が全く異なるとしっかり伝え破棄せず対応して欲しかった。3.11を風化させず亡くなられた方を偲ぶ、一方でこれからの未来を築いて行く子供達には明るい地域作りも復興には大切な事。祝うはずの赤飯がパンに変わり子供達がどの様に感じたのかを役所も学校も聞いてみたら良い。
確かに、「卒業式のお祝い」を優先してもよかったと思います。
しかし、学校や公的機関の失敗や判断ミスにつながりそうなことは、報道で一方的に、そして徹底的に批判され、攻撃されてきたことが多く見られます。
少しでも、批判される可能性があるならば避けようとする判断が身についてきたのかもしれません。
校務員の守秘義務から、言えないことが沢山ある中で、批判した側の意見だけを取り上げ、批判し続けてきた報道の姿勢にも原因があるのであるのではないでしょうか。
今でも、いじめやアレルギー対応によるトラブルに対しても、一方的に被害者側の言い分だけを良しとした報道をして、学校や教員、市や県を責め立てる偏った報道があります。すべて本当のことを話せば、すっきりできる場合でも、守秘義務の関係で言えないことがたくさんあるようです。また、クレームを言う人の後ろには、関係ない人たちが集まってかき回しているような気がします。
お米の高止まりが続いてるなかでも、異物混入など廃棄が妥当なら納得できるんですが、今回のお米の購入費、調理にかかる光熱費、人件費、さらに廃棄にかかる廃棄費は誰が負担したのか?さらに、備蓄用パンも今回食べた分早急に購入しないといけない。給食無償化になってるなら、それは税金です。保護者負担があるのなら、保護者の収入から出てます。誰が責任取るんでしょうかね。
捨てなくても、職員が皆で分けたら2000人分だったら、食べられそうなのに・・・
公務員はそういうのを私的流用してはいけない決まりもあるから、本来の目的で配布することができなくなったら、捨てるしかないのかな。
でも、引き取った業者さんも、そのままどこかのお弁当屋さんに売ってるかも。
鍋に入れた状態で、給食みたいに配るものだったら難しいけど、きっと卒業式で渡せるように個包装されてたんじゃないかな?
本当に捨てられて燃やされてないと、良いなと思います。
ご意見を出した保護者の方も廃棄までは望んでいなかったと聞く。問題は過剰な判断だし、また判断を下した教育長は3/11に赤飯が出ることを知っていたら防いだという。
この考え方が問題だと思う。
3/11は福島だけでなく、日本全体において追悼すべき日なのだから、全国民がお祝い事をしてはならないという極端な発想に繋がる。
追悼も大事だか、いつまでも頭を垂れて足元を見るのではなく、明るい未来を見つめて、ここまで育った15歳の子らが巣立つことを祝ってもいいのではないか。
そんな考え方がこの教育長にないことがおかしいと思う。
日本人は本当に他人の目や意見を気にするし、行動の基準が他人軸ですよね。
個人軸を持っていないから他人の意見に流されやすく‥
その結果、メディアに出る人間は「個人の意見は言ってはいけない」と叩かれる。
他人を気にするので誰も本音は言わないし、それぞれの違いも認められない‥
皆が同じ方向を向くことで安心感を得られるような国民性は、国を豊かにすることは無いし人生の幸福感を得られる結果にも繋がらないと思います。
被災された方々の気持ちは分からないでもないが、9年間の義務教育を終え自ら選択した進路への旅立ちの行事でもある卒業式を大人として祝ってあげるべきであった。被災した年に生まれた子どもたちもいるが、彼ら自身が一番複雑な心境だったのではなかろうか。行政にいろいろな意見もあっただろうが、素直にお祝いしてあげるべきであったと思う。
死を悼むことと生を尊ぶことは表裏一体なのではないかと思います
どちらを優先するか、ではなくどちらも大切なことだと伝えていく必要があると感じます
尊ぶことを控えてしまえば悼むことも忘れていってしまうかもしれません
そうであるならば子どもたちの成長と門出をお祝いするのはやはり大事なことだと思います
過去の出来事から、祝い事と忌む出来事が重なる事はあるのだから、相応しく無い事は決して無いと思う。
親の命日と子の誕生日が同じ日の時、クレーム入れた方はどうするのだろうか。
子供達は、何かしら思う所があっても、一旦飲み込んでその後がどうなるか想像出来る人に育っていって欲しいです。
言うべき時は、言葉を選び伝わり方も考えれたらなと思う。
震災当時、米農家の友人と協力し、米90キロや水を指定場所に届けた。
あの時、山積みの支援物資の光景を目の当たりにし、食の尊さを心に刻んだ。
だからこそ、今回の食品廃棄は、あまりに軽薄な判断だと感じた。
赤飯の「赤」には、古来より邪気を祓い災いを除ける“魔除け”の意味がある。
3.11だからこそ、子供たちが災いに遭わぬよう、願いを込めて出す意義がある。
追悼と祝福は、本来ひとつの場所で両立できる。
一本の電話で「事なかれ」に走り、大切な食材と祝う心を手放す体制。
それは教育の場として、あまりに残念で、未来への指針を欠いた不当な態勢。
このニュースに触れた、多くの方がまず感じたのは「もったいない」という率直な思いではないでしょうか? 物価や米価の高騰が続く今、2100食分もの給食が廃棄されたという事実は、誰にとっても「なぜ」と問い直したくなる出来事です。 もちろん、震災というデリケートな事案に対し、被災された方々へ想いを寄せる姿勢は、日本人として大切にすべき精神です。 「お祝い事」を連想させる赤飯を避けるべきだという主張も、一つの心情として理解はできます。 しかし、真の「寄り添い」とは、必ずしも何かを諦めることだけではないはずです。 例えば、赤飯は持ち帰りに切り替え、その場では非常食を食べる。あるいは、いただく前に全員で深い黙祷を捧げ、食のありがたみを噛み締める。こうした「食を無駄にしない形での敬意の示し方」もあったのではないでしょうか。 給食は子供たちにとって、単なる食事ではなく「食育」の場です。
続く↓
それだけ、教育現場が萎縮している証拠。
ちょっとした事で教育委員会に訴える、
メディアに暴露する、
訴えて裁判沙汰にすると脅してくる保護者や生徒。今や教師は聖職では無く、サービス業化している。
氷河期に採用を控えたせいで指導技術の伝達もできていない。現象だけで叩くのでなく、その背景を見てあげて欲しい。
自分は現在も東北外に住み、なんなら震災時は首都圏で電気を供給していただいてた者です。
先ず震災に遭われた方々に哀悼の意とお見舞い申し上げます。
部外者がなに綺麗事をとお考えなら、ここで止めて下さい。
さて、甚大な被害が出た未曾有のこと、それこそ現地に居ないものには判らない様々な感情があるでしょう。
そのうえで、故人の皆様はどうお思いなのでしょうか?
それこそ分からないけど、もしかしたら、これからの子供達には元気に育って欲しいと考えたかたもいらっしゃったのではないでしょうか…。
赤飯なんかいつでも食える状態に戻りました。
「俺達、赤飯食えなかっよな」との(変な?)思い出にもなるでしょう。
感情は個々あるでしょうが、歳を重ねた者からひとこと言わせて下さい。
ご卒業おめでとうございます。
確かに震災の日と重なってしまったのは配慮が足りなかったかもしれないが、純粋に卒業をお祝いする気持ちの代物だと思う。
指摘を受けたからといって事勿れ主義で直ぐに廃棄という方が、なんだか今の日本を象徴しているようで寂しい気持ちに成る。
「次回からそういった点も配慮しながら献立日程を組みます。」でよかったし
給食の前に教師が卒業を祝い意味での赤飯給食の事と偶々重なってしまった震災の事を語ればそれで良いと思う。
廃棄すべきではなかったと思います。
百歩譲って意見を言う側に
辛い思いがあったとしても、
あの甚大な被害の中で繋がれた命の尊さ、
お赤飯を配れるまでになった皆さんの努力を
あっさり捨ててしまう決定を下した側こそ
福島の歩んできた道のりを何もわかってない。
頭があり、心があり、言葉があるのだから
他にいくらでも取れる対策はあったはず。
言ったもん勝ちみたいなこの結果には
心から残念に思います。
震災時、救援に来ていた自衛隊の非常食の缶詰が赤飯だった事の時も
クレームが入りました。
それいこう、赤飯を止めたのと人前では食事をしなくなりました。
中には、レトルトのカレー等温める事なくそのまま口に流し込んで
いたりしました。
しかし、腹持ちと、栄養価を考えた時、もち米を使用している事もあって
非常に有効な食事なのですが。
この件に関しては、クレームもそうだが、きちんと説明をされず廃棄した
学校側もどうかと思います。
まぁクレームを入れる奴が多分だけど他人の粗を探して何かしら文句を言ってストレスを解消する趣味が有るのだと思う。
クマクレームもそうだけどこういった電話に対し、要望する対応と実行した場合の責任者として住所氏名連絡先を公開しても良いと条例を定め費用負担もしてもらうべきだね。
被災地の人しか分からない感情とは思うが、過剰反応のように思う。
確かに被災で多くの人が亡くなった日であり、その日に祝い事は相応しくないのかもしれないが、逆にこれだけ復興して来た証しと考えないだろうか。
被災の年に生まれた子たちが義務教育を終わるまで大きく育ったことを素直に祝うという赤飯でもいいのでは?と思う。
最近は、色々な方がおりますから学校へ電話した人が、もしかしたら、私が指摘をした事を配慮してくれなかったと学校に乗り込んだり、子供達に被害がおよぶのではと行き過ぎた考えをしたかもしれないですね。 それでなくても、市民が知らないだけで、子供たちへの声掛け、子供たちの後をつけてくる、凶器になるような物を持っていて捕まっている人もいる。結構、市内ではある事です。愉快犯の爆弾仕掛けたFAX、メールもある。怖い時代です。
でも、廃棄は一番駄目だったと思う。
何か悪いことをしようと思ってしているのでなければ、過剰に世間の声に反応する必要はないと思います。毅然と、なぜそれをしているのかを表明すれば良いだけです。
それでもあがってくる声は無視すれば良いと思います。熊駆除を動物愛護の観点からしか考えられない輩と一緒です。結局は自分は部外者であって、批判したいだけのためにクレームを入れるだけの人たちなのですから。
たしかに震災直後はそういう空気感も強かったでしょうし、反対にそういう時だからこそ、お祝いは素直にお祝いしたいという声もありました。
あきらかに悪いことをしたのでなければ、大目に見たり、集団でいじめをするようなことはやめましょう。善意でやったとしても、それが問題であれば、反省して次にいかせればいいのです。
東北出身だが確かに赤飯文化はほかの地域よりあると思います。葬式のときは黒飯だが、お盆は赤飯を食べていた気がします。
今回の件は①3/11の最後の給食に赤飯を出そうとした②クレームがあり、急遽赤飯を廃棄した。教育長は①に対して問題だったと言う認識だが、市長やほかの多くの人は①に対して問題はない認識だ。②についてはほぼみんな問題の認識があるようだが、では廃棄するときに誰の判断で廃棄したのかという問題が残る。
この問題は「赤飯=おめでたい」という認識がクレームを入れた市民・電話を受けた行政側お互いにあったことから起きたと思われます。
古来からのお祝いとは、「無事にその時を迎えられた感謝」「生きている感謝を神様とか祖霊に伝える」ものでありました。
決して禍を忘れてパーリーキャッホー!ではないんですね。
仮にその事を考えずに提供したとしても、子供達の中に「この赤飯の重さ」を感じ取る方もいたでしょう。
どちらの意味でも全く問題なかったと思われるのに、教育側の人間が勉強不足では子供たちに大事な事を教えられませんよね。
給食のメニューは前の月の末日に発表されます。それをこの保護者は読んでいたのか。クレームを入れるなら、今月初めにすべきだろう。食材の発注は数日前までにされるので、通常ならその時点ですでにメニューの変更はあり得ません。
卒業生はかわいそうだし、現場の栄養士など、教職員の対応も大変だったはずです。当日のクレームにはきっぱりと断るべきです。しかも一件とは。恥ずかしい方です。震災の鎮魂とは分けて考えて当たり前です。
簡単に「廃棄」を指示した人がよろしくないと思う。
子供に出すのを控えるのであれば、職員たちが手分けして持って帰るとか
もう少し食物の大事さについて考えた方が良いですね。
傷んでるとか味がおかしいとかの事ではなく、食べられるものを簡単に捨ててしまう事は、食育とは逆なのではないかと思う。
これって初期の頃の報道だとクレームではなく問い合わせがあって、特に赤飯を出してはダメとは言ってなかったような。
話が進むうちにクレーマー扱いになってきている。
一番の原因は教育委員会であり無責任な結果だと思う。
ちょっと考えればわかりそうなのに何も考えないから「廃棄」という選択をしてしまう。
今回の事といい、いじめといい教育委員会はなにができるのでしょう。
できないなら別の組織に頼ればいいと思う。
驚くべきことに、このような判断を下した教育長の服部樹理氏は前文科省健康教育・食育課課長補佐だったらしい。
食育に携わっていた人物がこのような軽率な判断をするというのだから嘆かわしい話だと思う。所詮は震災による避難生活を対岸の火事としか捉えておらず、食べ物の大切さよりも1件クレームの方が重要だったのだろう。
後任には地元の方が就くそうなので、震災で得た「食べ物を大切にする」という教訓を活かした教育を行って頂きたい。
3.11に限らず世界中では毎日のように何かの有事が発生した日には当たると思います。確かに3.11は日本人にとって、絶対に忘れてはいけないの日である事には間違え有りませんが、そんな事を言ったらどの日だろうが赤飯を食えなくなりますよ。実家の両親も仙台市内で被災しましたが、あの絶望感と恐怖感、そして空腹感は今でも忘れないと言っています。それを思うと大切な食料を無駄にした事の方がよほど大問題。
学校の卒業生をお祝いする赤飯と東日本大震災の日はたまたま重なっただけで、赤飯の趣旨は犠牲者を悼みそのご冥福をお祈りすることとは全く別物だと思います。
一部の理不尽な保護者のクレームに学校ならぬ教育委員会や市までもが振り回され、貴重な食品、それもお祝いの赤飯を大量に廃棄したことに唖然としました。むしろ憤りを感じます。
丁寧に説明して、それでも納得してもらえないなら、筋を通して毅然とした対応をして欲しかったですね。
卒業生も赤飯を製造納入した業者も気の毒です。
そんなことで食べ物を粗末にしてよいのでしょうか!それも大震災の節目の日に…。
ちなみに私は新潟県南魚沼市の住民ですが、私達の地区では葬儀当日の朝に親族親戚に小豆色のいわゆるお赤飯を配っています。
未曾有の大震災を風化させてはならないのは当然です。
それでも前向きに生きていく趣旨とは大きく外れた話かと、率直にそう思います。
それが何時までも否定的な考え方に定着するのは、東北を復興させて少しでも元の生活に戻って行く事に暗い影を落とす事に他ならないのでは。
アフリカでは、主にソマリアやエチオピアなどの東部で、干ばつや紛争により飢餓が極めて深刻化している。2022年時点では48秒に1人が飢餓関連で亡くなっているとされ、特に子どもへの影響が甚大だ。全人口の約5人に1人が飢餓に直面し、食料危機が悪化し続けている中で一個人の意見だけで食べられる食料を簡単に廃棄する。
いまだに自粛警察のような人がいて、日本の中だけで常識、ルール、道徳の区別が曖昧なまま、漠然と全員が同じ行動をとるべきだという同調圧力が熟成されやすい。
この記事を読んで非常に残念な気持ちになります。
1人のクレームによる市側の迎合主義が世の中に広まりつつある気がします。
クレームを入れる方もだが市側の赤飯の廃棄する事が大問題になると思わなかったのか。
震災に遭われた方々の気持ちを思っての事だとしても、それでは未来永劫その事に縛られて生きていくのか難しい問題ではありますが。

