作家の乙武洋匡さんと参政党の梅村みずほ参院議員が、X(旧Twitter)で「五体満足」という表現を巡り論戦を繰り広げた。梅村議員が「五体満足で生まれてきた大切な子どもたちの自殺が過去最多に」と投稿したのに対し、乙武さんは「わざわざ書く必要ありますか?」と疑問を呈し、「五体不満足」で生まれてきた子も大切な命だと訴えた。梅村議員は「五体満足」が差別用語ではないと反論し、子どもの自殺者減少に注力すべきだと主張。両者は互いの意図を理解し、今後は「子どもが命を絶たずに済む社会」の実現に向けて協力していくことで合意した。
引用元: https://news.yahoo.co.jp/articles/e48384af7fb1082a6c7a3e83e7d49f89e13a3bf9
みんなの意見
私の友人は、五体満足に生まれて来れず、初めは私たちと同じ公立高校に入ったが、いつの間にかよそにうつり、20歳を迎える頃には車椅子での生活になった。久しぶりに彼が利用者的立場で職場に来て会った時に、「どこか遊びにでも行こうや。心配せんでもこっちは一応プロやし」「確かにね」と笑い合って話をしたのが最後だった。聞くところによると、この先が不安で、世の中や家族に迷惑をかけたくないと自殺したとのこと。
自殺を選ぶのに、五体満足も五体不満足もないと実感している。
自分の意に反して言葉によって相手を傷つけてしまうことがあるので、言葉の選び方は本当に難しいものだと思います。
一方で、受け止める側も言葉の表面のみにとらわれて過剰に反応すべきではありませんが、自身の経験や苦労から感じた違和感を率直に伝えることも大切だと思います。
何より大切なのは、伝える側と受け止める側、互いの立場を思いやり、理解しようとする姿勢だと改めて思いました。
梅村氏の偏った思想や失言の多さは辟易するレベルだが、今回のやり取りは、少し段階はありましたけど、最終的には当事者の立場を理解した上で(手放しに、ではないけど。)、寄り添う姿勢を提示し、その機微を乙武氏が汲み取って譲歩した感じに決着してます。
正直、もう少し寄り添いを見せてもいいのではと感じるけど、梅村氏にしては頑張った方だなと感じました。
言葉選びは大事だと思います。
それによって傷つく人も居ると言うのもわかるのですが、そこを言い過ぎると誰も何も言えなくなります。
大事なのは言った方の本位をくみ取ると言った事ではないですかね、
察すると言う事では無いでしょうか、あまり過剰になりすぎると教育の弱体化、企業の弱体化、国の弱体化になるんじゃないですかね
意図として本来失う必要がないはずの命ということを強調したかったんですよね。梅村さんの意図も読み解けます。
この件に関しては乙武さんのその後の説明を見て、確かに当事者の視点だと持つ感覚もあるなとも思いました。
両者相手を尊重しながらの議論になってますし、どちらかを過度に批判する必要はないのかなと思いますね。
啓蒙としては大切な議論だと思います。ただ実生活においては全ての立場の気持ちを完璧に理解しつつ発言をすることは至難ですし、相手の意図を読み解く力や不意に入ってくる自分にとっては望まない言葉への耐性をつけることもこの議論と同じくらい大切ですね。
この言葉って「五体満足」って書くことで、病気や怪我や先天性の欠損や疾患、精神疾患などの「五体満足」以外の人たちの自死は「悲しいこと」に含まないし、「五体満足以外の人間の自死は悲しいことではない」っていう意味にもなるうるのに、本人が指摘されてもあんま納得してないし今も気付いてなさそうなのが怖い
お腹の子が長く生きられない病気だとわかって中絶をしたことがあります。正しかったかどうかは分かりません。産まれても本人も家族もその病気で振り回されて幸せでなくなるような不安の方が大きかったので、次の妊娠にかけることにしたのです。自分の年齢も収入も余裕がありませんでした。親の都合による命の選別だったかもしれません。『幸せな人生を送って欲しい』とどんな親も願うことですが、生きてこそです。
五体満足で生まれてもなお死を選ぶことを憂う気持ちは分かりますし、五体不満足で産まれても幸せな方もあり、五体満足という言葉をあえて使うことに違和感を覚えるのも理解できます。
いろんな立場からいろんな価値観を持って議論になるのは悪いことではないと考えます。
ただ一つ、今健康である人は健康であることを幸せと思って欲しい。幸せでいて欲しいと願う人が近くにいる人も幸せだと感じて欲しい。今生きていることを大切に。
下手に切り取らずにこういうやり取りをしっかり掲載して、意図背景まで伝えてこそ報道ですね。
それぞれの立場にたった主義主張から、最後は相互理解が得られている。
子供の頃に、健康優良児として表彰状も有るが、35才で障害者となりました。健康だった頃は「五体満足」は当たり前のような感覚でしたが、障害者となった今、改めてこのニュースを見ると健康だった頃に戻りたいなと思う自分がいます。自分としては、特別に気にするような言葉ではないので、使うことに抵抗はありませんが、なかには気にする方もいると思うので、今回のように、多くの人の目に触れるところでは配慮も必要かなとは思います。
障害のある方は、常に負担を強いられているわけで、どうしても物事を俯瞰する余裕が生まれづらいのでしょう。
初めから双方の主張は理解できないほどおかしいことはなく、それぞれ理解できます。
どのような立場であれ、互いに尊重する姿勢が肝要だと思います。
かなり乙武さんが大人の対応をされたイメージが有ります。
言葉は「意図」が大切なのは言うまでもないですが、「意図せず」誰かを傷付けてしまう事もまた、言葉の力です。
言葉狩りを良いとするわけではなく、言葉の持つ力を最大限に発揮するためにも、その裏面で傷つく人がいないか、と言う配慮はなされるべきだし、意図せずとも傷付けてしまえば、意図を説明しつつも謝罪はするべきだと思います。
だって、発信側も別にそのポイントで論戦したいわけじゃないはずたから。意地にならず、謝罪した方が良かったと思います。
自殺をする人に対してのメッセージとして梅村さんが思いを綴ったと思われますが、仕事柄とここ最近の言い回しにやたら過敏すぎる日本人に対して必要以上に言葉に気を付けるべきだったのだろうと思いますが…ただ乙武さんの場合、ベストセラーになった「五体不満足」っていわゆる五体満足の反語を自分の身体としてのテーマの作品でそこから著名人になったと記憶しており、一般人は五体満足って言葉何気に使うとここまで言われてしまうものなんだと思っちゃいますね。同和問題を一般人が言うとやたら過敏に叩かれる構図と似てる気がします。
私自身は、五体満足という用語に関しては特に良し悪しという基準や差別的に思う事も無いですが、時代の流れか、各々言葉の解釈や使用する立場によってとらえ方や、感じる所が複雑になってきているのは理解できましたので、乙武氏の思いも分からないでもないですが、後段での一文で梅村氏が五体不満足で生まれてきた子達の命が大切じゃないとも取れる様な飛躍した解釈を投げかけたのはどうかと思います。そんな事思う訳がないのでは?と感じる次第です。決着したようですが、まず吹っ掛けるような事やり方をしないで冷静に問題提起をすれば無益なやりとりをしなくてもよかったのではないのかなぁとは思いました。
私自身も両親も先天性の障害者なんですが、逆に障害があると不満足なんですかね?乙武さんが五体満足という表現が問題だと言うのでのであれば、私は不満足という言葉もどうかと思いますよ。不自由があっても満足できるかどうかなんてその人次第でしょ。揚げ足ですけど、乙武さんの梅村議員への指摘も同レベルのものだと思います。乙武さんもベテランの障害者なんだし、心を痛めた当事者や親御さんのために不自由=不満足じゃないことをもっと伝えるべきかと思います。
一般生活で他人の言葉に傷つくことは沢山あるだろうに。
普段の会話であれば聞き流すようなことも、SNSだと文章に残ってしまい、さらに著名人同士でやり取りすれば嫌でも取り上げられ、結果、本来触れなくて済んだであろう人にまで届いてしまう。
寛容な心が必要。
個人一人一人に気を配り尊重するあまり
学校の皆勤賞が美徳とされなくなくなり廃止が増えてきているように、
周囲の空気を読むのが望ましいと言われつつも
公共の概念がつかみづらい世の中になっている気がしますね。
言葉選びの配慮が必要と同時に、言葉の行間を読むことも大事です。
乙武氏の発言は、理解を示した後の問題指摘には、強い否定が感じられ対立を構築するものではないでしょうか。
梅村氏の発言は、ジシに思い悩む人に対しての発言であり、その思いは政治的なものだけに限らない、人間としての憤りから強い発言になったとも読み取れます。乙武氏の懸念することが有るとするなら、彼の立場でこそ、梅村氏を一方的に擁護してこそ、自省にもなり、社会全体が平和的に多様化が進むと思われます。
配慮されるべき人々が、その発言をみずからすることにより、強制感が出てしまう事は問題解決にはならないように考えられ、それは、この事に限らず、全ての事に当てはまるものでないでしょうか。
梅村氏が用いた「五体満足」という言葉は、古くは己の恵まれた環境を省み、他者への慈しみを促す文脈で使われてきた。自死という極めて深刻な問題に対し、強い危機感からその言葉を選んだ意図は理解できる。しかし、公的な発信において特定の属性を「前提」や「比較対象」に置く表現は、図らずもそこに含まれない人々を疎外する刃となり得る。
乙武氏が「うっ」となったと率直に伝えたのは、感情的な非難ではなく、言葉が届く範囲の広さと、その影に隠れる存在への配慮を求めたものであろう。
最終的に「ノーサイド」として本質的な課題解決で一致した点は良かったと思います。合理的な議論を積み重ねることは当然として、言葉の裏側にある「人情」や「痛み」への想像力を欠いては、真に分かち合える社会は遠のく。言葉を選ぶという行為は、単なる記号の選択ではなく、立脚する人間性の発露そのものであると感じた。
梅村議員の説明を聞くと、それはそれで言葉のチョイスが何だかなと思ってしまいました。
「多少の困難に見舞われようとも自分の環境をありがたいと心して励むべし」というのは、死にたいと思った人の苦しみを軽視しているようにもとれます。
少なくとも、五体不満足で生まれた人の苦しみよりはマシだろうと決めつけています。
でも、苦しみの感じ方は人それぞれで、そこに軽重をつけるものではありません。第三者からみれば些細なことでも、当人にとっては死にたいくらい苦しいということはあるわけです。
「五体満足」は昔からある言葉なので、梅村みずほ氏の視点はこうだと思う。意味は「五体満足」=「恵まれた状態を当たり前と思うな」→本質は 子どもの自殺問題への問題提起
昔は「五体満足=普通の表現」
今は「多様性を前提に言葉を再評価する時代」
五体満足=多数派の状態
そうでない人=少数派
言葉は「多数派を基準」に作られている
だから無意識に“少数派を外側に置く構造”になる
梅村氏は正しい
問題提起の本質は重要
言葉の歴史的用法も事実
乙武氏も正しい
実際に傷つく人がいるのも事実
現代の言語感覚として自然な指摘
「意図が善でも、言葉は他者の文脈で意味を持つ」
・・・心や身体の病で苦しんで自殺する人がいる社会を、苦しまなくても生きられる社会設計を政治家にお願いしたい。もちろん我々国民も日々努力を怠ってはいけないだろう。
五体満足や五体不満足でも今の社会は自死に関しては関係ないと思います。
今の社会で問題なのは精神疾患を生活の中で患い、そこから選択肢として自死を選ぶことも割合には入っていると思います。
言いたいことはわかる。
病気で生きたくても生きられない人も多い。障害を抱えている人たちの悩みや不安を想像した時に、少なくとも体は健康であり、それだけで本当に幸せなことなのになぜそれに気づかず死を選ぶんだ?という思いだろう。
が、言葉一つで皆いろんな気持ちになるのだからそこを想像をめぐらせても良かったのではないか?
自分でも『ん?』と引っかかるものがあった。『健康に不自由なく生まれて…』とか、言い換えはたくさんあると思う。
問題はこの表現が差別用語かどうかではないと思うし、それに対するコメントも少し柔軟さに欠けるようにも感じた。ここは言葉選びの意志を貫く必要のないシーン。
言葉は大切にするべきが当たり前。
自分でペンにインクをつけ、一文字一文字自分の文字で書き綴っていた時代とポンポン文字が変換される今とでは、やはり自分の言葉に対する認識の深さが違うのかなと感じました。
五体満足、殆どの人は当たり前の言葉として捉えるかもしれないがそうでは無い人にとっては複雑な言葉かもしれない梅村議員のコメントを見たが五体満足との言葉が無くても趣旨は十分理解出来る。自殺者を無くしたい2人の意見は同じだと思うので両名で話し合いをすれば直ぐに解決出来る。
言葉が問題なのではなく、この文脈においては、五体満足かどうかで区別すること自体が問題なんだよね。
子どもの自殺を悲しむという話題で、わざわざ五体満足の人の限定するというのは、少なくとも文脈上は問題。
そして、指摘された上で、その文脈を問題ないというのは、余計に問題。
五体満足じゃなかったら自死しても良いと?病気や障害があったら死んでも良いの?
それに五体満足には精神は入ってます?
発達障害や精神障害は含まれてます?
自死を選ぶ人のなかには先天的に何かある人も多いと思う。
自死を選んでしまう環境と五体満足はなんにも関係ない。
子どもが生まれる前に五体満足で生まれてきたら良いねと言われて、ん?と思っていた。生まれてきてくれることが大切だし、五体満足でも色んなトラブルも病気もある。それが大切だと思っている人の見識の狭さに違和感を覚えましたね。
まさか国会議員が使うとは思いませんでした。
言葉のスペシャリストであるべき人がとは思いますが、学んで頂けたなら幸いですね。
傷つく人に配慮するのが目的ならば、その言葉を使わないことは本質的な問題(その言葉を見て不快に思う方々の精神状態)の解決にはなっていない。乙武氏は四肢が不自由でもこれだけ立派にやっていけるということを社会に証明したわけなので、言葉に敏感になってしまっているご家庭の方々に、ハンデを悲観的に捉えずもっと前向きに生きていこうと励ませばいいのではないだろうか。もちろん劣等感などどうしようもないことはあるだろうけど、四肢でなくても経済的、出生、遺伝的など様々なハンディキャップで人は誰も全く同じではない。その精神状態をいかに乗り越えるかが大切であり、言葉を変えるとか使わないとか、その辺りでモメるのは本質的ではない気がする。
「少子化の中で、五体満足で生まれてきた大切な子どもたちの自殺が過去最多」という発言は、発言者に悪意がなかったとしても、受け手や社会全体からは「障害者差別、あるいは優生思想的な考えに基づいている」と捉えられる可能性が高い表現だと思われる。
「五体満足で生まれてきた」という条件をわざわざ付けることで、論理的に「五体満足ではない(障害のある)状態で生まれてくること」を、暗に「不完全である」や「価値が劣る」と対比させているように聞こえてしまう。
実際に障害を持つ乙武さんがそう感じているのであれば、梅村さんは言い訳しないで謝った方が公人としては望ましい姿と思います。
>「本来皆で考えるべき【どうしたら将来ある子どもたちが自殺せず生き生きと成長できる社会】に触れることなく『この人間は差別用語を使っている』に終始する人が多い」
こういった視点は大切。問題の本質の議論ではなく言葉狩りに流れてしまう人間のなんと多いことか。
何事に関しても、文章を読む(直訳する)だけでなく文意を読む意識は必要だと思います。
そのうえで品のない、あるいは乱暴な言葉に対して物申していくべきでしょう。これはこれ、それはそれ、で切り分けて扱わないと安直な応酬に流れがちで誰にとっても実りの無い展開になります。
元々は仏教用語で「健康に生まれてきてよかったね」という語源なので、昔の人は結構、祝い言葉として使ってる人もいるんだよね。
しかし障がい者の方への配慮も必要な現代では使い方に注意な言葉であることも確かで『難しい言葉』だよ。
梅村氏も今後は注意すべきですが、乙武さんも一概に差別かのようにくってかかかる必要もないと思う。
乙武さんの過剰反応だと感じる。
「五体満足で」という表現は梅村さんの説明通りの用法であると思うし、「せっかく親に生んでもらえたのに」という意味でもある。
そこに、差別的な意味合いは無い。
この表現が駄目となると、「耳が穢れる」なども「耳が不自由な方への配慮を」となるし・・・
「目が潰れる」なども「目が不自由な方への配慮を」という話になり、人体の部位を用いた比喩やことわざが全て配慮が必要になる。
「全員が納得」「全員が気持ちよく」という前提のコミュニケーションをしようとしたら、頭で思いついた単語をいちいちスマホで検索するしかなくなる。
誰も傷つけない表現なんてどこにもない。
人は結局、自分のフィルターを通してしか物事を感じることはできない。
同じ人でもその時の置かれた立場で感じ方も変わる。
不快に感じたとしても、相手が悪意をもってしたことでなければ許容できる人でいたい。
なんなら、悪意があったとしても許せる人になりたい。
と思う。
昨今の言葉狩りには反対の私だが、記事のやりとりを見る限りではこの言い方だと五体満足ではない子の自殺は優先順位が下だと言われてるように感じるな、と思いました
頭にわざわざ言葉をつけたのであれば、それは強調したい言葉のはずで、その言葉以外のものよりその言葉のものが重要だという意味になるのが一般的なので
それぞれの立場で受け取り方は変わるとは思うけど、こういう突っ込みがいちいち入るから何も言えなくなる。
健康に産まれたということを言いたかっただけなのでは?
そこに突っ込みを入れるからおかしな方向にいくような気がします。
こういうやりとりをネット上でやるからどんどん息苦しい世の中になっていくんだよな〜。こういうのは見えないところでやる配慮も必要です。
五体満足は差別用語として使われてきた言葉じゃないという認識だし、乙武さんの著書の題名である五体不満足も、あくまでも本の題名で差別用語じゃないと思う。
五体満足でも自殺に走る子供が増えたってことを言いたいだけでここまで批判するか?状況によりけりだが、五体満足か五体不満足かでは後者の方が自殺に向かう要因にはなるだろうしそれを誤魔化したり隠したりするのは本当に正しいのか?五体不満足の方を差別や軽視してるって騒いでる方がそれをしてると言えると思うがな。自殺による懸案がより悪化してきたという表現としての一例でしょう
「五体満足で〜」というのは昔からある言い回しですね。その一連の言い回しの文脈から五体満足という言葉自体に特別な意図がないことは明らかです。ですが、乙武さんには非常にデリケートな言葉だというのも分かります。
乙武さんは夫婦別姓に賛成だそうですが、両親が別姓である子どもにとっても親子で姓が異なるというのは非常にデリケートなことであり、人為的に押し付けられる辛さを理解されているのでしょうか?
不要って言えば不要な表現だったと思うけど
配慮、配慮と、すべてに配慮してしまうと言葉の表現が出来なくなってしまう
元気って言葉だって、元気じゃない人はいるわけだし
歩いて行こうなんて言葉も、歩けない人もいる
あきらかに貶しているわけでなければ、言葉の綾として寛容であるべきだと思うけどね
この記事に書かれただけを読むと
わざわざ「五体満足」の語句を入れる必要はなく
「配慮に欠けていた所があったかも知れません。不快に感じられた方がいらっしゃったら済みませんでした。今後は言葉選びにより注意致したいと思います」的なひと言で(時間は掛かっても)丸く収まるだろうに、
それをまたしてもわざわざ「いつから五体満足が差別用語に」的な反論をしなくてもいいのに…、という印象。
言葉は正しさをぶつけ合うためにあるんじゃないんだから
これは梅村さんの言葉選びが間違いだと思いました。
言葉からその深い意図を読み解くことができるのは、普段から梅村さんを知っている人に限られますよね。
梅村さんや梅村さんの政治活動を知らない人には、そのまんまの言葉と文字でしか伝わらないと思いますし、何より、身体障がいを抱える当事者やその家族には、心を突き刺す感情がうまれたのではないでしょうか。
不毛な議論に発展するのかと思いきや、お互いに理解しあって決着したようですね
ヒステリックにぶつかり合うのではなく、このように議論して歩み寄れる良い見本になったかと思います
障がいを持っていない自分でも、あの投稿には「『五体満足な子どもたちが』… 『五体満足』を付けないと子どもの自殺増問題を言及できないのか?」 と思いましたが。単に浅い文章力だったのでは。
それとは別に、政治家がポエムのような事を発信して何が解決するのだろうか。子どもの自殺要因は複雑であり、しかし、SNS規制に各国が動き始めているのが事実。政治家として、子どもの自殺増に「何を根拠と考え、何を改善したいと思うのか」が全く見えてこない内容だった。
読み方で捉え方が変わるのではないでしょうか。批判的な人は「(五体満足で生まれてきた)→子供たち」と対象を限定しているように見えたのだろうが、ここでは「子供たち→(めでたく五体満足で健康に生まれてきたのに)」というニュアンスで使われているように思う。障碍児を疎外するような意図は一切無かったかと。日本語って難しい…
なかなかむずかしい問題ですね。
公に発信するなら立場も考慮した発言は必要でしょうけど、なかなか完璧に全ての人に配慮をするのはむずかしい。
悪気のなく発言してしまうこともあるでしょう。
指摘する方も、差別がどうとかではなく冷静に配慮を求めるなど、指摘の仕方にも配慮が必要だと思います。
最近の言葉狩りのように差別だなんだと騒ぎ立てるのは、聞いてる方もうんざりしてしまう。
今回の乙武さんは違うが、関係のない人たちが必要以上に責め立てるケースが多すぎ。
確信を持って差別する人と、議論してやめさせることは基本的にできません。
「言葉選びの問題」にすりかえている、あなたもね。
ただとにかく、それがどんな差別で、誰が踏まれて痛いのか。どんな痛みなのか。
その差別のない社会派どんなに素晴らしいのか。
それを明らかにすることがいちばんの意義です。そうすることで、人間の中に大きな変化が生まれます。
差別を無くすということは、訂正や言い換えではありません。
それは驚愕と感動がともなうものなのです。
同じ言葉でも、使い方捉え方次第では嫌味にもなるでしょう。
だけど、何でもかんでもネガティブに捉えて、やれあーだこうだと言うのもどうかと思うね⋯⋯。
口先だけで生きてる人が増えたせいでしょうか。
日本語は他国語に比べて表現が事細やかで誇るべきす。
いちいち言葉尻を取って否定しないで
色々な意味で日本語を大切にしましょうよ。
誰もが個々での会話なら相手を把握できてるので発言に気を遣うだろうが、不特定多数を相手に講演したりSNSで相手にしてるような人は、一対多数で多種多様な人が見ている事になれてしまい反応や応答件数が多くても、不特定多数が相手と知っていたはず・見えていたはずが何時の間にか、そこにいるはずの多くの相手がその辺におちてる石ころと同化してしまって見えなくなった事から発言の校正に時間を掛けないSNS多使用の副作用だな。
指摘した乙武さんも一度発言したら多くの人の記憶や動画に残ってしまう演説やデジタルタトゥーとして残るSNSでの失言はある。
言葉を文字にするとキツク感じる、不特定多数を相手に頻繁に発言・発信する影響力のある人は、自分も気付かない内に失言してる前提で悪意が感じられない失言は注意・指摘するのではなく攻撃性が無いアドバイスとして誘導する事で売り言葉に買い言葉からの無駄な応酬は減らせるかもね。
思い込みを点検する的な文脈が流行りだして長いけど、後から後から問題は増える一方なのにこうやっていちいち立ち止まって逆戻りするのも限度があるだろう。
もちろん人権や尊厳がどうでもいなんてことは思ってないし言わない。
だけど、理屈をこねくり回して気持ちくなるだけで何も解決できてないじゃないか。
今回の事象を確認しましたが、明らかに悪意のない表現でした。それに関して突っかかっていくのは、違う気がします。この方は自身の環境で、似たような表題の著書を書かれ収益を上げていますが、五体満足という言葉狩りをするなら、その時、傷付かれた方も多かった気もします。もし、現代社会で五体満足を使用してはいけないとするならば、誰もがわかり易く放送禁止用語に指定して欲しいものです。
この話 省略されているけれど
乙武氏の反応に対して
梅村氏側が 五体満足を差別用語とレッテルを貼りをしてきたのはいつからでしょうか?
と過剰反応しているんだよね
それが問題を大きくした印象なんだけど、
意識って言葉の節々に現れるものだから
上手く収めるのも技術の一つだと思う

